最近事ある毎に言葉にに対する違和感を覚える事が増えた。
最たるものとしてはアニメやらタレントが使う「ヤバい」と言う言葉。
もちろん凄いの上位互換として使っているのは承知しています。
でもヤバいなんて言葉おいそれ気軽に使うのはどうかと思います。
次にもやるのは政治経済動画にやたら出てくる民主主義と言う言葉。
これに関しては以前触れているので割愛します。
そして本題です。
批判、不満、悪口が同一の意味として使われている事には危機感を覚えます。
本来批判は悪い意味はなく、建設的な議論を前提とした定義です。
批判を=悪口とする事は本気で良くないと感じています。
これらが統一された定義になった理由は根深くて、一つは日本人気質による責任所在地を曖昧にして臭いモノには蓋をすると言う極めて醜悪な悪習慣によるモノ。
もう一つはこの定義がそのままいじめとイジリの境界線を曖昧なモノにした事で、明確な犯罪であるにもかかわらず責任所在地を誤魔化す事で本来であれば侮辱される謂れも理由も無い人が承認欲求と自己優越感に直結している事。
これは本当に由々しき問題です。
理屈は至ってシンプルです。
例えるならサッカーでミスパスをして、それが原因で失点に繋がった場合これを批判しなければそのプレーは改善される事なく敷いてはチーム自体が弱体化する訳ですが、この批判を悪口と解釈した場合物事は全く違う側面を見せる事になります。
判りやすいところで言うならこの悪口と解釈された事でチーム内の不和、不仲と書き立てられ、結果として批判をしたものがチームを去るなんて事にもなり兼ねます。
わたしが言いたいのは批判と悪口の線引きを曖昧にする無いと言う事ですが、現代社会は処世術の一つとしてこれらが定着している。
これが後に大きな問題を引き起こす事になるという想像力すら働かせず、無責任身勝手な保身で処世術と称して他者を批判と悪口と詭弁で貶める。
少し考えてほしい。
周囲全てが敵で何時如何なる時も保身を謀りつつ成果を挙げなければ己の生活は向上しないと言う檻がどのようなものか。
答えはとてもシンプルで手強い敵であればあるほど味方になれば心強い。
そう言った繋がりを否定して個人主義と称して批判、詭弁、悪口を使い分けて生きる事の息苦しさを肯定する社会が健全なのか?
理想論とかきれいごとと言われようと何度でも言いますよ。
共食いしてて楽しいかい?
息苦しくないか?
人を傷付けて奪って盗んだ金や時間を貪るのは己の心を苛んでいまいか?
だからわたしは言うんです。
本気で共食い止めないと、あと50年も待たずして日本人の心は死に絶えますよ?
そしていい加減物事を曖昧にするのは止めましょう。
ダメなモノはダメなんです。
きちんと線引きして健全な距離を保ってお付き合いしないと共倒れになる。
きっとわたしの書いてる事も人によっては悪口に見えるでしょう。
それで結構です。
その感性はあなただけのものであって、わたしは干渉するつもりはありません。
けれど疑問は投げかけます。
そしてそれをどう解釈してどう判断するかはあなたの自由です。
本当は自由って怖いモノなんですよ?
自己責任と言われるwくらいですから、己の行動発言の責任は全て己で背負わなければいけません。
他人丸投げする事も出来ますが、それはかえってあなたの心を苛む呵責が増えるだけだとわたしは思います。
ほなね