ここ10年くらいでしょうか。
人間と言う所為物やらその定義やらを過るようになりました。
それを通して通過点として至った一つの答えは「人間は不完全」「人間は聖人君子である必要はない」でした。
もちろん法が赦しても世間が赦さないと言う罪もあります。
だた一様に思うのはここ最近政見放送やら演説動画を観てきました。
それもきっと民意としてはそういう風に誘導されたか、恣意による必然なのかまでは判りませんが、有権者の多くが候補者や関係者に対して完璧を求めすぎじゃないか?と言う事です。
もちろん時の為政者になるかもしれない人たちだからそこに一片の曇りなく、況や犯罪紛いな経歴などあってほしくないと言うのは人情と言う他ありません。
ですが海千山千で一癖も二癖も腹に一物どころか百物くらい持っていそうな人物が跋扈している集団の中で清廉を保ちつつ理想を唱える事は困難だと思われます。
そんなのTシャツに短パンで関ケ原に赴くようなものです。
だからと言う訳ではありませんが、腹芸も必要となるのは避けられない…今まではそうだった。
日を跨いでいるから今日なんだけど、開票結果の趨勢が決まる頃同じ様に今まではそうだったと言えるかは判りません。
実は先日の事ですが期日前投票に行きました。
投票に行く事を頑なに否定していました。
否定していたからこそ今まで何度か行った投票の中でも今回の投票は重いものになりました。
有権者の責任と言う意味では特に重いです。
どこの誰に投じたかは黙っておきます。
けれどそこに可能性がありそうだから、それを感じたから、本当に日ノ本をあるべき姿に戻してほしいと言う思いだけは変わりません。
日本人の民度は決して高くないと発言しました。
その事は今でも変わりません。
ですがここでコペルニクス的転回を転用するなら屁理屈になりますが、それらは政治主導によって齎された可能性も否定は出来ません。
そりゃそうです。
給料の額面の半分が税金や保険料と言うのですから、労働者の意欲ダダ下がり、心だって荒みます。
ですがわたしはこうも書いた事がありました。
現代日本の社会病理。
まだ全てではありませんが少しずつ繋がって、少しずつ形という可視化できる状況になりました。
今選挙の争点である外国人と減税ですが、何処の党もほぼ差別を肯定する事は言っていません。
あれは歯に衣着せた物言いにも聞こえかねませんが、わたしは差別の定義を説明せぬまま差別反対と言い張る事には違和感を覚えます。
極々シンプルな理由になりますが、分譲マンションなり、戸建てなりそれぞれお住いかと存じますが、隣人が昼夜問わずどんちゃん騒ぎしていたらどうしますか?
先ずこう言ったご時世ですから、身の安全を図る意味においても警察という第三者を交えて注意してもらう事になるでしょう。
腕っぷしに相当の自信があるとか、武器弾薬を所持している方は別次元の問題になるので割愛しますが、軽犯罪法14条一項に基づいて状況が改善されない場合今度は裁判で争う事になりますが、そんな時間もお金もかけるくらいなら自ら退去するか、相手に退去して頂くかの二択になると思われます。
こう言った経緯を経て結果相手を排除する事を特定の活動家たちは差別だと声高に叫びます。
どこぞの代表の受け売りで申し訳ないがこれの何が差別で行けない事なのか説明して頂きたい。
0-100思考の人に多いロジックの特徴としてこの結果だけを切り取って説明や経緯を省くと、わたしは考えています。
出来ればそういった方とは無縁でいるに限りますが、もしそういった方にウザ絡みされたら逃げましょう。
追ってきたら無視するしかありません。
わたしが思うに彼等にとっては相手にされればそれがお金になるからです。
少なくともプロ市民と呼ばれる方々はそうでしょう。
そしてその多くが己の頭できちんと考える事を放棄して、起承転結の起と結びだけを主張してきます。
特にこの10年でしょうか、在日韓国人の事が鳴りを潜めた感がありますが、あの時の騒ぎもこれに酷似しています。
彼等の主張も何処かチグハグで支離滅裂なモノでした。
その問題が現代は在留中国偉人、或いは川口の自称難民とされるクルド人問題でしょう。
排斥排除は良くないとはいいますが、自分の体に何かしらの細菌やウィルスが侵入して体を侵すに至った場合何らかの方法で解毒するとか輩出するとかするはずです。
それが命に直結しているなら尚更排出排泄を促すでしょう。
ただ、歯に衣着せたように聞こえる物言いだったとしてもそこには0-100ではなく50にも配慮しようという風にも聴く事が出来ます。
不完全で完璧ではない人間が構築した価値と社会です。
そこに不具合や綻びが生じるのも必然です。
ですが、それは遊びともいえます。
日本の失われた30年で排除されてしまったモノの中にこの遊びという概念があります。
この遊びは何かを楽しむ事に直結してはいるのですが、言い換えるならばあらゆる物事に対して配慮や優しさが介入できる余地や余裕を意味しています。
0-100思考の人にはこの遊びがほぼ欠落しているように感じます。
状況の被害者と言える側面もありますが、それ以て不正不当な行為を正当化する免罪符にする事は許してはいけない。
これを許してきたから、現代日本はここまでガタガタに骨抜きにされました。
だからここだけは譲ってはいけないという一線をもう一度引かなくてはこの先日本は立ち行かなくなると過去にも書きました。
それを維持しつつ遊びも保持できればいい感じのバランスになるのではなかろうか?と思うのです。
今日日付が替わる頃何が起きているか判りませんが、出来るだけ佳き社会になる事を切に願います。
ほなね。