物事を整理している必ず行き当たるところ、それが過去。
もう毒親とか超越しているのでカウンセリングは必要ないかな?と思うのだけど、やはり納得していない部分が残っているので無理。
わたしのカウンセリングは私設のものでしかもほぼAC専門である。
嬉しい出会いではあったがこの主治医さんはわたしにとってとてもありがたい存在。
相性がいいという事もあるが、感情の表出を中心に置いているのでほぼ自分の心を預ける事が出来る。
しかしこの手に限らずカウンセリングとは言わば記憶を呼び起こす作業であり、とても疲れるものです。
何しろそれまで忘れていた記憶を呼び起こすもなので危険を伴う事もあります。
記憶としてますが、これが魂に触れる事でもあるので相性や主治医の力量は重要となり、今もって尚わたしが間を空けていられるのかはこのカウンセリングによるところが大きい。
その方のスタンスはあくまでも”お手伝いで”あり、それ以上踏み込んでくることはしない。
何故ならそれは新たな記憶を刷り込む可能性を秘めていてとても危険な行為だから。
ありがたい偶然ではあったが、まさか歩いて十分の近所にこういった方がカウンセリングを開いていたのはまさに行幸と言えた。
未だにこの方の力を必要としているのはわたしがまだ未熟であり、問題を抱えているから。
多分だけど現在抱えている失望や絶望もおそらくこの方を通して自らの記憶を呼び起こす事で解決に至るか、その必要すら無くなるのかもしれない。
いい年おじさんがカウンセリングを必要としているのは傍目に格好いいものではないが、ACを抱えている多くの人は恐らくこの問題が己の生き方に直結している。
何故なら幼少時に与えられ受け取らなければいけなかった足りない何かが存在する限り、一般的な生き方を望む事自体が困難だから。
しかもこの問題時代や政治とも繋がっていて、かなり根幹的な要素でもある。
救いとか、痛みから解放されたいと願うだけで批判を受けてしまう現代社会においてとても辛い事ではあるが、反面一般的な健全な人と言われる人たちが本当に健全と言えるのか疑問も持っている。
優劣の問題ではなく、出来るだけ健全な状態でいるには本来こういった事実を周知、共有して理解を深める事が必要となるが、その体制が不十分で今この時もこういう問題で苦悩する人がいる。
ただし全部が自分以外の所為ではなく、半分くらい?は自分であり半分くらいが自分以外の所為と考える事も必要。
だって全部が自分の所為だとすれば人間はだれ一人としてその責任を負わなければいけないが、とても負いきれるものでもない。
だから距離感を保ちつつ、バランスを考えて出来るだけ穏やかに「理解」し、「分解」して「再構築」というプロセスを辿る。
けれど記憶を呼び起こす事はとても疲れるので、カウンセリングを必要としない方は己の記憶に触れない事を推奨します。
これは冗談ではなくて、本当にとんでもない記憶が呼び起こされる事で心が壊れてしまう事があるので、専門家の力を借りる他ないのだ。
ほな。