もしかしたらタイトルが重複しているけど、書いてみよう。
尚前もってお断りしておくとこれから書くことは種や民族宗教ではなく、一人一人に言える事。
そしてわたし自身にも言える事である事をお忘れなく。
世の中には「マウント」とか「優越」「優劣」という「序列」がある程度定まっているようで、しかもそれが「善き事」として独り歩きしている印象を抱く。
まず。
人間がこの世に生まれ自我に目覚め、幼いながらも各種専修学校に通う事で「社会性」なるものを身に着けていく。
もちろん一部の例外を除くけど、とにかく日本という国は「法治国家」であり、当たり前だけど犯罪行為をすれば逮捕起訴され裁判にかけられ何らかの「罰」を受け何らかの「償い」をする。
これはまぁ当たり前として良いとは思う。
しかし問題になるのは「それら」を遵守するために払われる「代償」とか「犠牲」に焦点を充てると共にその根源や原因は何であるかをわたしなりに解釈した内容を書くことになるのかな。
例えば人はたくさん勉強して出来るだけ「願いに沿える」事の出来る大学に進学し、人によっては在学中に公務員一種試験とか司法試験を受験し、法曹畑や、官僚、或いは一流企業といった「出来るだけ生活が安定する可能性の高い」世界に進む事を良しとしている。
それは否定しないけど、わたしの知人にこれに充る人物が何人か存在する。
その本人達曰く「望んで国家公務員になったのはいいが、理想と現実のギャップや上司の無茶振り、何より大義名分であったはずの国民に寄与する名分に背くのではないか?という事が多すぎて何の為に国家公務員になったのか判らなくなる事があって、時に退官したくなる。」といった話をよく聴いた。
もちろん省庁や部署によって守秘義務が課せられているので内容までは教えてくれません。
ただし話から察するにかなりの葛藤と苦しみを抱えているであろう事は容易に想像が出来た。
果たしてこれらの原因や如何に?
もう一つは「おそらく欲しいものを手に入れたであろう人物に限って”足りない何か”に悩み、満たされぬ日常を送っている」人が多い。
そしてその揺り返し?とも言える反動が「マウント」とか「優越感」に直結している事が多いのだが、その足りない何かとは何なのか?とか逆の言い方をすれば足りない何かが在れば満たされるのだろうか?という疑問が残った。
これはわたしも同じ事で現在「持たざる存在」であるわたしは過去「持つ者」の側でもあったけど、一貫して変わらないのは足りない何かが今も判らない事と、その何かが在れば満たされるのだろうか?という疑問。
さて本題。
この「足りない何か」とは何なのか?或いは満たすための「何か」とは何なのか?が今回のテーマ。
これは憶測の域を出ないけど、満たされる事で多くの問題がクリアに出来るのではなかろうか?と淡い期待を持っている。
もしわたしが「現代社会」や「人間」に対して何かを見出すとすれば「満たす」「満たされる」事で得られるであろう現在よりもずっと楽に生きる事が出来る世界とか社会という事になる。
また逆説的に言うとこの「期待」が存在する事で葛藤してもいるのだ。
昨今いろんな社会問題が表沙汰になるが、そのほとんどは「時代」や「個人」の線引きによる違いで生まれる軋轢や摩擦によるところが大きい。
以前も今だけど「人間の定義」から始めないと何も変わらないという趣旨の発言をしていたのはここに由来している。
それでまず考えられる要因の一つがあらゆる物事の「機能不全」となるのだが、そこには経済も介在しているので一括りに解決を図る事など到底むり~となりそうではあるけど、人間である以上それを現実として擦り合わせなければこの「社会」などいとも簡単に「崩壊」してしまう。
引用元の是非はともかくこの足りない何かとは聖書で言うところの「隣人愛」なのかもしれないし、もっと別の事かもしれない。
聖書はともかく、どんなに素晴らしい教義も道徳も倫理も通用しなくなってきているのも現実で、それらに抗うには何が「必要」かという問題でもあるのだ。
わたしの知識で言ってしまえば「愛」なのか「諸行無常」なのかでもある。
もちろんこの二つ以外の答えもあるのだと思う。
けれど大事な事は誰もが納得できて受け入れる事の出来る「真理」という事なのだとも考える。
けれどわたしの場合物事をシンプルにするために試行錯誤した結果が「愛」か「諸行無常」であったに過ぎず、しかもこれはファイナルアンサーでもなければベストアンサーでもない。
さらに皮肉な事に「持つ者」とか裕福な生活をしてるであろう方々は何かにつけて優劣を語りたがる。
その原因が己の生活を守るためのモノであればまだ健全な方だが、多くの場合「弱いものがさらに弱いものを叩く」という構図であるケースが多い。
しかしそれをする彼等もまた「満たされない」人々である事も付け加えておく。
では、これらの問題や軋轢を減らすには?
その答えは現代人に導き出せるとは思えない…がしかし一部の「気づいた人」にはこの答えが判っている。
その人々が何物なのかは想像にお任せします。
だがわたしはその「人々」一部と関わった事があり、それ自体がわたし自身を生かしている「理由」でもある。
大袈裟な言い方だけど、「世界の痛み」や「人が産まれ持った業」を止める為の行使は始まっている。
だが「間に合う」かどうかは判らない。
しかしそれは別として個別個人のレベルで「足りない何か」を考え、「何が」在れば満たされるのかを考える必要はある。
答えになっていない事は承知だけど「現時点」でわたしが判っている事はこれだけ。
答えに近い促しとしては「まず争う事」を止める事。
その時点で「人間とは何か」を議論する事ではなかろうか?
ほななん。