最高裁で夫婦別姓は合憲との判決が下されたようです。
この別姓問題ですが、いろんな思惑が潜んでいると思う。
例えばフェミとか男女平等とか、或いは外国人が安易に日本国籍を取得できるようにするとか。
特に最後の行はかなりヤバい代物で、外国人参政権に直結する。
過度な期待という意味で括るならこれらの美辞麗句?に拘って別姓を推奨するのもヴィーガンや環境団体といった狂信者と何ら変わらない。
だってそれらは形を変えた信仰でもあり、ほぼ宗教と大差ないんだもん。
最近動画でも依存についてのモノが増えてきた。
わたしが考えるに自立の定義として現代社会に照らすと経済は切っても切れないようにも思う。
依存の定義も未だ曖昧で完全にこれが依存ですよというものはありつつも、孤立した場合のそれとは少し異なっているのが現代のジレンマとも言える。
とある動画の概要欄には「出世の為阿るが、結果としてその行動が己の首を絞める」とあったが、この場合出世依存とか金依存?という事になるのだろうか?
過度な期待は身の丈に合わぬ価値観とも言いかえる事が出来るのだけど、イコールでもない。
もちろん身勝手で過度な期待が己の心を焼き尽くすなんて事は珍しくないけど、依存と過度な期待は少し異なるのだ。
依存の対象がアルコールとかギャンブル、はたまた仕事なんてのも珍しくはない。
一つ依存の定義としては中毒よろしく「それが無いと心を保てない」「それが無いと存在意義が見いだせない」という事になる。
とはいっても自立を促されたところで今度は真の自立とはなんぞや?となるのだ。
例えば自給自足して農作物や酪農製品を売り買いして生計を立ててるとなればそれも自立とは言えるのだけど、別の言い方をすれば誰の手も借りない事が自立という事でもなかろう。
と、なればまず優先すべきことは取捨選択と問題の切り分けと特定ということになる。
もう一歩踏み込めば無駄の断捨離か。
身の回りの無駄を省く事で自立とは何ぞや?が見えてくる。
多分同時に何が依存だったのかも判ってくる。
わたしのようにもう世捨て人よろしく世間から一歩引いて見ているとそれがやたら目に付く。
といってわたしが自立してるとは言えないしそれは烏滸がましい事だ。
仮に今わたしが依存しているとすれば己の思考とか良識や見識という事になる。
さらにだからと言ってそこで驕るという事は戒めている。
常にこの考えが適切な答えなのか考えている。
乱暴な言い方をすれば完全な自立とは仙人のように霞を食べて、動植物を一切食べずに済む人の事だとも考えている。
乱暴と前置きしたくらいなのでこれが暴論なのは言うまでもない。
んで、最近になってちょっとした事がきっかけでまず「汝己を観、己を受け入れ、己を愛せ」となってきてはいるのだけど、ここが到達点ではないからこれらを納得した先に更なる問題や答えがあるだろう事は重々承知している。
動画の概要に書いてあった依存は主に出世競争を例えにしていたけど、実際正しい事を言う人や媚びずに阿る事の無い人が排除される傾向は強い。
それは平成も昭和も変わらない。
時代で言うなら平成時代はその傾向がより際立ったというだけの事。
さて、ここで大きなヒントになるのが歴史である。
どんなに偉人とされる人だって何かしら人間的に弱かったり汚かったりするものだ。
史実の全てが事実とは限らないが、その時生きていた人がどんな経緯で立ち回ったかを考える事はとても有効に思う。
そう考えると教育カリキュラムに古典や歴史にもっと比重を置いてもよさそうなものだけど…
何も現代において歴史上の人物と同じように振舞えという事でもない。
それを現代にフィードバックする事は可能だから、先人の知恵とか功績を見直すのも一計じゃなかろうか。
ほなね。