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This Armor

古今東西何でも研究所

ホントダヨ

何のお話かと言えば物事の事。
大抵半分は本当で残り半分に何かしらからくりがあったり、表沙汰にできない後ろめたい事が隠されているもの。

何度も触れている事だけど物事には功罪があるので、そういう意味だけを切り取れば話半分は同じ意味を持つ。

しかも凡その場合良い流れの時は表沙汰にならず、リスク面や悪い流れになりかけているときにそれを誇張して更に不安をあおるような情報が流れる。

競馬場に今も存在する予想屋のようなもの。
あと出資者を募るために仕込まれるカリスマ投資家とか?

ここにも裏表があって、元某プロバイダ社長が大きなコンテンツを構築しようとしたら謎の勢力によって瞬く間に排除されてしまうような。

時代の寵児というお題目で仕立て上げ注目を集め流れを作るという手法は戦国時代よりも昔から日本で横行していた。

流言とか噂とかがそれ。
しかし流言を一回で返還出来ないのはIMEの開発に日本語が不十分だからなのだろうか?

さてここで甲斐の足長殿をちょっと引き合いにしてみよう。
彼の名は武田信玄公。

足長は彼の諜報戦略を指す。

あくまでも残された資料にしか頼れないのだけど、あの当時にあって彼は他国の情報を土地の大名以上に知っていたとされている。

しかもその情報伝達には今でいう光通信とも言える狼煙を宅に使用したと言われている。
しかもこの精度が高くて例えば戦に直面した時相手の行軍やその配置人数の詳細まで掴む事が出来たというから驚き。

そういった諜報を駆使して「決して負けない戦」を常套手段としていた。
但し領土の拡大という部分だけを切り取ると晩年の領土に至るまでの時間は膨大なものになる。というのは俗説の一つで、しかもこの試算が後の織田信長の領土拡大に比べると何もかもが違い過ぎて比較する意味自体がかなり曖昧。

さらに言えばその性急な領土拡大と権力取得の末に彼が迎えた最後は歴史が証明している。

さらに彼亡き後織田家の領土と権力を継承した太閤さんに至ってはさらに戦略思想と規模そのものが違うので更に比較にならない。

しかしちょっとした共通点はあって、後に家康さんが甲州の浪人を沢山召し抱えたりご法度を応用したりなどされるように、懲罰はそれなりに厳しいが、民衆の支持を得ていた事にある。

もっとも武田信玄公に関しては別の側面もあり領土支配の差別化という意味も含めて現在の佐久地方に対しては苛烈な体制を敷いていたという資料もそんざいする。

つまり従順か抗戦かの差を明確にする事で領土経営を出来るだけ最適化しようとしたであろう意思は汲み取れるのだけど、やはりそこは戦国時代だから、禍根を残すのは相当な覚悟が必要だったと思われます。

かなり逸脱したけど、歴史上の人物評だって賛否が分れるのだし、現代を生きている人間ならなおの事お互いの人間性や心など見えようはずもないというお話でした。

ほなねん。
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