これも最近よく視界に入ってきます。
○○は~甘え
今に始まった事じゃないし考え方はそれぞれでいいよ。
但し未だに存在する何かつけ意見をすると称して言いたい事だけを吐き逃げする輩。
社会的弱者なる言葉もこの20年くらいで定着したようだが、この弱者になる事実を述べると、弱者は甘えとかとなるらしい。
んでその方たちは弱者に対する救済は必要ないものとして切り捨て、ひどい場合はそのまま野たれ死ねとまで言う。
さらに間が悪いとこれが主義の問題になり、福祉に優れた国家は~とかって話にすり替えられてしまう。
すり替える方は己の言い分だけが正しいまま去りたいのでここは必死になる。
すり替えないと己の浅墓さや軽率さが明るみになり、悪くすれば社会的な信用に発展するので本当に必死になる。
さらに必死になり過ぎて黙らせる為に腕力まで用いるのも存在する。
まぁ始末に負えないタイプだが、ここで書く問題はそこじゃない。
実際に何らかの理由で社会的弱者になるケースを問題したいのだけど、その原因の一つが上記なので無視する事はちょっと無理。
なのでお互いに擦り合わせるところや理解や認識を問題にします。
無関心が招いたか、作られた価値観が功を奏したかとかく現代は人に無関心が多くて、仕事や生活が充実していればそれ以外の事にあまり興味を持たない人が増えたようには思う。
そこまではいい。
無関心で不干渉ならね。
無関心で過干渉だった場合これが最も始末が悪い。
根拠薄弱な理由に基づいて他人に干渉して問題が生じると我関せずを決め込んで逃げ足だけは100人前に早いとくる。
さてここでいう問題が最大のテーマ。
なぜこれが問題視されるか?を考えればすぐに判る事なんだけど、社会生活に支障をきたす場合ね。
例えば電車に乗るのが辛いとか、食べたくても食事が喉を通らないとか、切羽詰まると過呼吸になってしまうとか。
これ経験のある人にしか判りませんが死活問題である事が多い。
しかも経験のない人はこれが死活問題である事すら判らない。
判るとすれば己の落ち度を指摘されたが最後、もう後がないという状況に陥ってからなんだけど、上記の理屈なら自己責任の名において手を差し伸べたり、救済の必要はないよね?
だって自己責任だから死ねって言ったじゃ~んとなる。
まぁわたし個人の感情はともかく、とにかくそういう状況にならないと人は学びませんし、問題が表面化しないと学ぶ事もできません。
このブログで何度か触れていますが、恥の文化や同調圧力。
社会問題になると必ず一定数現れる頭ごなしで甘えと否定する連中。
生きる価値があるかないかなど他人が決める事ではない。←ここ大事よ?
まずこれを弁えないといろんな状況で人を傷つけます。
無駄に傷つけるので買う恨みは等価交換では済みません。
それはまぁ自己責任ならすべての恨みを己でなんとかせーでいいです。
問題はそこじゃなくて這い上がるための有効な手段となります。
残念ながら行政の政策全般は機能不全を起こしていて支援の面において期待する事は難しい。
ならば理屈以外の場所で変化すればいいのだけど、多くの場合この事に気づかずのほほんとしているのも事実。
でも多くはないけどそこに気が付いている人もいるにはいる。
全面的に共感できるかは別となるけど、突破口を開かなければ道はないのだからその考え方そのものは共感します。
他人に関心があるのは良い事なのだけど、その視点が勝負とか1か100では疲れるでしょ?
現代人は常にベストアンサーを求めがちだけどそれを求めるにはベストセコンドだって必要だし、その繰り返しがきっと今よりも笑顔が増える事を願います。
ほななん。