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古今東西何でも研究所

人間とは…?

定義と解釈の幅が異なり、人によって大きな隔たりのある存在、それが人間。
昨今では何かと「人権」と騒ぐけど、人の権利を論じる前に人間の定義を論じるべきではないのか?というのがわたしの見解。
しかもこの問題明確な根拠に基づいて説明できる人は恐らく存在しません。

まず前提としてですが、金八先生よろしく人も物事もそれ単独では存在しえないとして、人と人が支え合ってはじめて人間であるというのは一理あります。

しかし某教典の定義では「神に似せた」とあり、このあたりが現代においてこの定義を難しくしている側面もあります。

で、根本的な問題ですが、人の形や器官を有し、心なるものが存在すれば人間なのか?と言えば決してそうとは言い切れない。

この世界には人間の形はしているけれど、中身は人間とは程遠い人間以外の何かとしか形容のしようがない何かが存在しています。
これはオカルトや陰謀論とは全く異なる現実に存在している事実。

んで、教典や道徳の定義は置くとしてどうやって定義と規定すればいいの?となる。

一般的な見解や考え方として、悪事を為す人は「人でなし」とか「血も涙もない」と表現されますが、一応人体を構成している器官を持ち合わせているのだから「それはちょっと違うのでは?」という意見も出てくる。

これがアジアと言っていいと思いますが、陰陽思想で定義すると人も物事も必ず陰と陽が存在し、それを併せ持っての人と定義される場合がある。
この考え方自体が欧米人や中東の信仰とは以て異なり、誤解が生じる場合も多々あって、ざっくり言ってしまえば一神教の人たちは「人間は神が想像」したとあり、そこに陰と陽の様な裏表が存在すること自体があまり受け入れられないのだとか。
現代にあってはその印象や誤解はほぼ無くなっているようだけど、人種や宗教でもって考えてみても人の定義が多き異なる事がよく判る。

わたし自身も「人間」の定義は本当に曖昧で、目に見えぬ心や呵責が存在していれば人間ではないかな~と考えている程度の認識。

しかしわたしはクリスチャンではないけれど「隣人愛」や「博愛」には共感しています。

それはきっと現代の日本人が忘れてしまっている感性であり、人を人たらしめる大きな要因でもあると認識している。

しかも日本人限定で言うとこの考え方は古事記を通して自然に土着し、誰から教わるまでもなく持っていてた考え方だった。

ある人がわたしにこう言った。
「神道や古事記には何かを教えるとか伝えると言った行がありませんよね?」と。

うーむ。
確かに言われてみればそうなんだけど、そこが神道の真骨頂とも言うべきところで、「それを見て自分なりに解釈しなされ」という言わば日本の神々が与えた理解の仕方のふり幅なのだろうと。

これが優劣でない事は言うまでもないのだけど、ある種その自由さが日本人に存在した考え方だったのではないか?と思う。

だがこうして書いてみるとやはり人間を定義するとその存在が人一人単独で存在する事が不可能である事がよくわかる。

その対象が信仰でなかったとしても、現代社会には対象となる存在が数多存在する。

動物だったり、自然だったりと言う風にだ。

対象が無ければ存在しえないなら、その対象が正しいか間違っているかも定義しなければならないという事だ。

つまりそれが現代だと政治経済や宗教、或いはコミュニティと言う具合に。

己が正しかろうとあるとき何かと照らし合わせてそれを図るのも人間なら、間違いを正そうと考えるのも人間。

意見の違いでお互いの主張が正しいとか、お互いが間違っているなんてよくある事。

つまりその隔たりを知ったうえで相互理解を探らなければならないという訳か。

めんどくせぇぇぇぇぇ

けどこれきちんと考えないと「人権」だって曖昧なままだし、その曖昧さが良くない何かに付け入るスキを与える。

出来るだけちゃんと考えないとね。

ほななん。
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