一連の事は置くとして。
不倫の方じゃありません。
聖書に記載されている方ね。
細かいところは大きく割愛して、簡単に言うと蛇の姿をした悪魔に唆されたイブがアダムに禁断の果実を食べさせた事で楽園を追われた。
そして少し詳細に触れると、何故追放されたかと言えば、神の掟を反故にしたから。
この行はまぁ有名なので書くまでもなかったのだけど、この時アダムとイブはお互いに責任転嫁をして言い争ったという行があります。
まさにこれが原罪と言われる人類最初の罪で、ここからは所説を織り交ぜてざっくり言うと、人はここから劣化を続け現在に至るとされている。
言い換えれば人はこの時心とか精神の大事な何かが壊れた事で完全なる人類を産み続ける事が出来なくなったとされています。
この完全な人類が更新のテーマ。
想像するに多分ガンダムで言われるようなニュータイプのような存在かな?
「ニュータイプとは戦争などしないで済む人間の事だ」とレビル将軍は言い切っています。
定義はともかく、不完全な人間は楽園を追われ死や病に怯えなくてはいけなくなり、それに対抗するかのように知恵を駆使して火を使い産業を生み出し文明や文化を創り出しました。
はて・・・今この現代が楽園かといえば議論の余地は無いでしょう。
この現代世界が楽園と言えるのは多分余程達観しているか何考えなくて済む状況にあるかと考えますが、これもわたし個人の見解。
某宗教の教義によれば現代人はその気になれば直ぐに楽園に至る事が出来るとか、創り出す事が出来ると言います。
これにはほぼ同意見なんだけど、そこにはとてもとても難しくて大きな問題が。
とかく現代人の中でも一定数の方は「不信」にお悩みなのではないでしょうか?
わたしもその一人。
「信じたい」のだけど「信じる」事で「裏切り」や「失望」が怖くて信じる事が出来ない。
もっといえばこの本質って「怯え」に起因している。
書いた通り「信じる」、「裏切り」は結果に過ぎず要因とか本質は「怯え」の方。
そしてとても難しく大きな問題はこれ。
誰もがほぼ同じではないだろうか?
パートナーの居る方は「信頼」に基づいていい関係を築いていると考えますが、ここにも「怯え」は存在していて、その結果招かれるのは関係の崩壊である事も説明するまでもない事。
では果たして人は人類はこの「怯え」を克服する事が出来るのだろうか?となるし、その手段や方法は?となるのも理。
何と言っても人間は「禁断の果実、知恵の実」を食べた者の末裔と言われています。
おそらくですが克服する方法は見つかるのだと思います。
但しそれは100年先か明日かは判りません。
達観してるとか、諦めていると言っても生きている間は煩悩に苛まれ四苦八苦するのが人間です。
お釈迦様は悟りを得る事で解脱する事を望んだようですが、それ自体が正しい事だったのかどうかだってお釈迦様にしか判りません。
だからそれを理解しようとする為に勉強したり、人によっては苦行したりと方法は様々ですが、それが成就する保証もありません。
目の前にぶら下がったエサがあれば飛びつくのは動物の本能と言えるし、この一事においては人間ですらその例外ではない。
が、このエサをあの手この手で全く違う見た目、味にする事が可能な現代社会において「信じる」事の難しさを本当に痛感する。
これは文字通りで、本当に痛い目を見たし、痛みを与えもした。
だからわたしの心の片隅には「わたしが簡単に極楽往生など許されない」といったものが存在している。
が、その反面で救いは求めていて、それは己だけじゃなくて全てが報われてほしいとさえ願ってもいるのだけど、それ自体が「傲慢」なのだろう。
宗教的な言い回しになったのはともかく、わたしの願う「収穫の日」を人が迎える事は可能なのだろうか?
なんとなく考え事していた事を文字に起こしてみまいた。
ほななん。