日々心は意図していなくても心臓と同じように動いている。
ぼーっとしてる時だって何かしら視界に入っているものだし、目を閉じれば何かしら考えているモノ。
その中には常に取捨選択が含まれているけどどうしても捨てられないもの、どうしても諦められないものがあったりもする。
自分の外で起きている事など深く考えず、出来るだけ自分の心に従う。
でもここにはきちんと境界線があって、その一線を越えると傲慢とか、独善、善意の押し売りとなるので、そこは気を付けている。
そんなこんなで外圧?からの切っ掛けで何かが吹っ切れる事だって珍しくはない事だし、そもそもそれは他人が己の意思でわたしに対して付ける評価なのであまり気にしない。
けれど最近少しモヤモヤしていた事がこの外圧を踏み込んで向き合っていたらなんかスッキリした。
「ああ、相手も自分と同じように苦痛を抱えていたんだ」と。
これで痛み分けと言う言葉は適切じゃないのだけど、何となく本来離れる事で手放し、手放した事で何かが入ってきた。
例えを変えるなら相手が持ち去ったパズルのピースが見つかるようなもの。
だから自分が自分がじゃなくてこういう時は素直に相手に感謝している。
もちろん二度と逢う事はないのだけど、それでいいのだと。
こういう事も循環の意味においてはごく自然な事なんだろう。
あれやこれや悩んだり、考えたりしても自分一人では限界がある。
でも自分は物理的には一人だし、おひとり様だから己で考えて時に苦痛を伴ってでもその答え?を導き出す。
持ち去られてしまったパズルのピースだって言い換えれば自分の欠片の一つでもあるからね。
少しづつでいいの。
少しづつ理解して共感できるなら共感して、共感出来ないなら拒絶すればいい。
それだけの事なんだよね。
関心事として政治経済やら事件の報道に眼を通すけど、残念な事にそれらの事は己一人で帰る事は出来ない。
だから感じるしかない。
嫌悪感だって痛覚のようなものなのだし、一切が無駄と言う事はない。
ほなね。