おはようございます。
わたしのライブラリには現在少ないながらも読み返している本があります。
ひとつは平家物語。
もうひとつは本多信一さんの著書。
本多さんとの出会いは20年以上遡る。
ふといつものコンビニで雑学本を物色していたところ[生きることを楽にする100の方法]なるものが目に留まった。
従前から「たかが人ひとり生活するためになんでこんなにいろんな事を犠牲にしたり、面倒な人間関係に振り回されなければならないのか?」と考えていたわたしはなんとなくその本を手に取り20ページほど読んでみた。
面白そうだったのでお買い上げしたのが始まり。
以来少し悩むとその本を繰り返し読んでいる。
内容は現在でいうところの自己啓発となるのだろうし、事実そう表現した知人もいた。
しかしわたしはジャンルで本を読むわけではないし、自己啓発だろうがなんだろうがプラスになるならそれでいいと思っている。
内容としては確かに啓発に近いのかもしれないが、実際はそんな生優しいものではない。
だって現在でいうところのコミュ障に対してそれを認めて受け入れたうえで自分なりの個性とか生き方を探してくださいというものだから。
あれをしろこれをしろではなく、その前の段階をご自身の経験に基づいて書いておられます。
さてこのままでは本の紹介となってしまうので、本題に。
実はこの本がきっかけで気付きを促されたのは事実。
本来仕事というものは金を稼ぐ手段だったはずなんですが、現在はそれが逆転していると言える。
流行り?の言葉で表現すると仕事の奴隷とか金の奴隷。
わたしは人が作り上げた紙幣などに己の心も思考も縛られるのは御免なので現代人とは少し異なった感覚を持っている。
確かに中には価値に値する物事はある。
しかし結局のところそれを選ぶかどうかは己次第となる。
この事に気が付くだけでも随分楽になれた。
だって嫌なものに対してNOを突きつければいいだけだから。
翻って好きな物事に対しては貪欲なまでに妥協せず、追求している。
大した人生ではないが、まだまだやりたいことだってあるし悟りを得て安寧のうちに人生を終わる事が出来ればそれもいいのだけど、まだそれを考える時期でもない。
少しお話を逸脱してみよう。
本多さんという方は著書の中で仏典にまつわる言い回しをする事がある。
もちろんご本人が仏教徒ではあるものの、信仰よりもお釈迦様の残された言葉を大事にしておられ、ご自身もそれにあやかりたいと願う由。
ここも相まってか本を手放さず繰り返し読んでる次第。
わたしも仏教徒というよりは般若心経をひとつの哲学と事実と捉え、出来るだけ無常、あるいは風のように姿を変え形を変えて状況に応じる生き方をしている。
処世術ともいえるのかもしれないけど、そんなに御大層なことではなくて
わたしは今現在のわたしのあるがままに生きているに過ぎない。
過去にはエリート意識も持っていたし、相応に出世にも関心はあったが、そういった方々と接してその処し方を観ているうちに出来なくはないがわたしには合わないし、なによりめんどくせー!となり背を向け世捨て人然となった。
捨ててみていろんな事柄がフラットに観れるようになったのも幸いした。
たまに意地悪な視線で他人を観ている事もあるけれど、所詮目の前にいる他人は鏡であり自分自身だと思えば意地悪する気にもなれず、言葉に出さぬがありがとうと言っている。
そう例えばネット上に転がっている修羅場話は落語の感覚で見ているものの作り話とも実際に起きた話とも解らぬがそこに人が介在している事実は変わらない。
因果応報とか自業自得とかあるえれど、何かが間違っている、或いは間違えたまま放置してきたであろう人間の弱さとか愚かしさがそこにある。
もちろんそういったお話は後々参考になる事も多く、その意味においては決して無駄な事ではない。
けれどそこに必ず存在する不動の事実はあくまでも人ひとりの選択。
それを理解してしまえばどうということはない。
そしてタイトルに結びつく。
面倒だからこそシンプルに。
いろいろ複雑な世間、持っているもの或いは見ている視点を変えるだけで以外と楽になれる事は多い。
しかしそこには何かを得るなら何かを捨てるという犠牲があるのも事実。
残念な事にわたしはまだライフワークに辿り着いていないがそれも風任せでいいと考えている。
役割など全ての条件が誂えられた様に揃わないと難しいもの。
役割を担うのも結果であるが、その役割を得るまでに下地を耕しおかなければ何も実らない。
過去の経験から学んだ事は決して無駄ではないが、それが実を結ぶには相応の苦悩や努力も必要とされるが、それを必要とする人、それを後押ししてくれる人も必要なのだ。
選択の繰り返しと取捨選択が物事をシンプルにしてくれるというお話でした。