ずっとずっとそうしてきた。
あの時からずっと。
根幹を為すものは何も変わっちゃいない。
理屈はとてもシンプルだったよ。
詰まるところ要るか要らないかの二択でしかなかった。
そして要らないものを捨て去ってきたら現在のわたしになった。
取捨選択を迫られた時、或いはその必要性を感じた時わたしは誰の意見も訊かないし、必要が無かった。
おかげ様で傍目には変人とか捻くれて見えるようだがわたしにとってはこれが日常。
迷う事だってあったが、それでもわたしは誰かの意見を尋ねる事は無かった。
背中を押してほしいときくらいか。
わたしが話を切り出すときは解決を望む時であって共感を得たい事ではない。
共感を得たとて大勢が変わらなければ意味がない事を子供の頃から知っていた。
しかし裏を返せばそれだけ信用に値する誰かが居なかったとも言える。
けどね…
判るのさ。
相手の気持ちがどこにあるかではなく、自分に無い事くらい判るのさ。
そんな相手のお為ごかしが何程の役に立とうや?
わたしもだが相手も常に己を考えている。
解決を望む時二つの方法がある。
お互い納得の上で何も犠牲にせずに済むか、納得の上でお互いの何かしらを犠牲にするか。
二つとも割と健全ではあるのだが、後者だった場合相手が執着を捨てられない事が多い。
わたしは考えに考え抜いて妥協案を提示するが、それすら相手は納得しない。
そんなのばかり見てきたから人を簡単に信用する事はない。
信用したとて己の生き死には自分で決める。
詰まるところおひとり様が性に合ってるとしか言えないのだが、それでも誰かを必要とするとか、好きになる事だってある。
好きと信じるは僅かに異なるし、好きが全てを許容してしまえる事だってよくある事。
信じる事も好きになる事も同じくらい大切で比べる必要もないのだし、そこは在るがまま為すがままのほうがいい。
判ってしまったらきっと必要なくなるし、判らないから、疑問に考える事から物事は始まるもの。
傲慢と言われようがこれを変えるつもりはない。
けれどそれはあくまでも根底にある問題であってこれが顕在化する事は滅多にない。
世の中ってある視点で考えるとそれほど重要なものは少なくて、それだけに向き合っていればあとはどうでもよかったりする。
わたしにとって重要なもの。
それは命のやり取りとか好きと言う気持ちをあるがままにする事。
もちろん傷付ける事も傷つく事も望まない。
そこを気を付けてさえいれば物事はとてもシンプルで生きやすく感じる。
だから変わらないし変えてはならない事だってたくさんあるのさ。
根幹の変化を強いられて息苦しいくらいならそれはおそらく己の魂を欺く何かかもしれない。
けどこれを以て孤独を良しとしている訳でもなければ推奨もしない。
今のところ一人だけど、また誰かと関わるかもしれないしね。
あれこれ考える事も重要だけど、ありもしない起きてもいない事を気に病むのは良くない。
今日も深呼吸して肩の力を抜いてゆっくり眠りましょう。
ほな。