お釈迦様曰く「人生とは苦」とあり、苦を楽にする事がほぼ事の本質と言っていい。
頓智や論点のすり替えにも思えるけどこれは一つの事実でもあり、心理に近いと言えよう。
しかし考えてみよう。
お釈迦様が生きておられた2500年前は現在とは到底比べ物にならないほど情報量も少なく、物資も少ない時代。
無論それに比例して娯楽も少ないわけで。
仏教の教義を否定する訳じゃない。
教義とか宗教の在り様は時代に伴って変化している。
これはその変化にどう対応するのが間違いの少ない選択に迫れるかの問題でもある。
例えばわたしは仏教徒であり、神道教徒でもある。
しかし現実に対応するための指針として現代で言うスピリチュアルも受け入れている。
中には詐欺商法紛いなものも含まれているけどスピの本質は学び。
魂の学びとしている。
目に見えない物事に対する受け取り方として十分に有用だし、さらに現実的な対応におけるそれは傾倒とは異なり、とてもシビアでともすれば自分も相手も傷つくもの。
100%の解決が望めない場合損害の少ない方法を選ぶのは最も現実的と言えるだろう。
さて問題は解決方法の定義となる。
大抵の場合拗れてしまった関係を完全に修復する事は不可能であり、しかもそういう状況に多く見られるのが白黒、0か100かという一切歩み寄りも譲歩もないものとなる。
これをできるだけ穏便に収める事は至難の業でこの場合において己も相手も傷つけるリスクを回避する事は出来ない。
その時にどうするか?
これも白黒と言われてしまえば身も蓋もないのだが、二択なら相手を殺めて生き延びるか、己が犠牲になって相手が生き延びるか?という事になる。
そして確実に断言できるのはこの事実から学ぶことが出来るのは生き残った者のみ。
少なくともわたしは死んだ事がないし、死んで解決になるなどと考えていない。
学びやお勉強が大事になるのはこの二択を迫られた時。
人間も所詮動物とするならまんま自然界の摂理弱肉強食は理となるわけだ。
しかしその弱肉強食を良しとせず一歩進む事を選んだも人間であり、それは最初の叡智だった…かもしれないが最初の傲慢だったかもしれない。
だが人間として生きている以上他の動物と一線を画す意味合いにおいても野蛮ではない事を証明する意味においても人が人たらしめんとする為にも理性が必要であり、歩み寄りや譲歩が必要となってくるのも理。
大袈裟に考える事はないし、お釈迦さまも言っている。
この世の出来事はすべて幻、己作り出した幻影に踊らされて生きることなどないと。
そういう緩衝材の役割をも担っているのが悟りから生まれてきた教えなのだろう。
そして学びもその教えがなければ存在しなかった。
人たらんとするとき、己が己である為に必要な学びは何か?を考えてみようじゃないか。
変に宗教や教義に頼らなくてもヒントはたくさんあるし、答えも意外なところに存在しているものだ。
ほなね。