先日の事。
某報道に77歳のご老人が53歳無職の息子を刃物で殺めるというものがあった。
事件の報道自体はあまり問題ではない。
あるとすれば「無職」と書き立てる事で一種のミスリードや差別侮蔑を招くであろう事くらい。
そしてこのご時世あらゆるSNSが発達した事で物事に対する個人の見解が一瞬で世界中に発信される。
ここまでもまぁいい。
問題だと思ったのは事件に対する不特定多数の意見の方。
これに対してはここで何度か触れているが、あまりにも「安全圏の物言い」で呆れかえる。
事件の背景に存在するであろう事由に触れず好き勝手言うものが特に目立つ。
そういう人達はいったい今まで何を観て何を経験してきたのだろうか?
報道で流れるような事件がまるで自分とは全く無関係で「溺れる犬は棒で叩け」と言わんばかりの身勝手さがよく目立つ。
確かに「まともな職」に従事しているであろう人達はそれを手に入れる為多くの代償を払ってきたであろう事は理解する。
しかしその過程で重要な「何か」抜け落ちてきたのではなかろうか?
それは背中合わせに存在している「危機感」でもあるが、それを差し引いてもその身勝手さには唾棄を覚える。
発言をするなと言っているのではない。
あまりにも身勝手で不用意な発言が多すぎると言っているのだ。
どんな人だって完全ではないし、不完全な部分を他人と共有し補う事で成り立っているのが人間社会であり、それらをすべて蔑ろにして「己の身の安全が保障されていれば何を言っても許される」という風潮に対して提議ををしているのだ。
本来こういう事件は痛ましく悲しい出来事であるが、それに対して同情しろとも言っていない。
まずそこに至った理由や背景を考えろといっているのだ。
それが出来なければ次の「被害者や加害者」なるのは己だという適切な危機感と理性を持てと言っているのだ。
誰かが零れ落ちていく様を笑う事は人間として自然な事かもしれないが、そこから学ぶ心を無くしたらそれはきっと人間ではなく「人間の形をした人間以外の何か」なのだとわたしは考えている。
つまり理路整然とディベートする価値の無い物体であるという事。
理性が通じないのだから人間としての意思疎通が出来ないのは自明の理だという事に気が付けと言っている。
「明日は我が身」という気持ちを忘れては誰にも優しくなれない。
己を含めた大事な何かを守りたければ他人の尊厳を相手の許可無しに侵害するなと言っているのだ。
それを強要する事は必ず何らかの形で己に帰っていく事を忘れてはならない。
現代社会病理の一つがまさにこれなのだ。
他人事をあまりにも当たり前とし過ぎている事はとても人間的とは言えない行為である事に気付いてほしい。
わたし一人がここで発言したところで何がか判る訳ではない事は承知している。
けれどこれを捨ててしまえばわたしはわたしでなくなるし、人間ですらなくなってしまう。
痛みと悲しみが自分だけのものではなく、相手も同じように痛みと悲しみを感じる人間である事を忘れてはいけない。
人類愛とか博愛とか大袈裟なモノではない。
それは身近に存在する「事実」なのだ。
さて共食いを止めようとしない人達よ。
君達は何時まで共食いを続けるつもりかね?