このところ大したトラブルも無く、静かな日常を暮らしている。
多分今まで生きてきてこんなに穏やかな自我を過ごしている事は無かったように思う。
「禅」と向き合い「全」を考えてきた経過でしかないのだけど、相応に満たされているようにも思う。
思考停止した訳ではないが、求める物事がごっそり減った。
これは歳を重ねた「エイジング」に拠るところも大きい。
けれど短気は相変わらずで、目の前でダラダラされると、つい舌打ちする癖は変化していない。
先ほど「パーフェクトレボリューション」なる映画を観た。
なんとなく伝えたい意図は理解できた。
中でも「人格障害」に触れていたのは時代の需要なのか、とても真に迫った内容だった。
わたしは身内に「障害者」が居て、一緒に生活してきたのでセリフの意味や周りの誤解や偏見も、「それ」に関わりのない人に比較すると割と理解がある方なのだとは思う。
けれどなんだか、これは以前からそうなのだけど、「気の毒」とか「可哀相」と考える事自体に唾棄を覚える。
それが目に見えない心の病とされる「人格障害」においてもほぼ同じことが言える。
映画のセリフにあったのだけど、人格障害とは何らかの外圧要因で認識や認知が歪む事が凡その本質なのだけど、問題はその過剰なまでの反応だけを切り取って「ガイジ」や「底辺」として区別したがる自称健常者の認識の方が余程危険極まりないと考えている。
もっと簡単に言えばそれは「確信犯」となんら変化が無い。
以前トラブルの対象になった親子も「確信犯」そのものの物腰だった。
何故そんな事が言えるか?
答えは簡単。
わたしが嘗て?「人格障害」と診断され、相応に認識や認知、境界線と言うものを考え続けて今に至っているから。
無論わたしの発言全てが正しい訳じゃない。
同時に得体のしれない「何か」を排除して出来るだけ「安全」な生活圏を整えようとする気持ちだって判る。
誰だって不必要なトラブルに巻き込まれたくはないのだから。
問題はその不必要なトラブルを不必要な物事であると判断できない人が一定数存在している事、そしてその誤解や偏見がそれを拗らせている事。
ちとお堅い話になりそうなのでこれに関しては後日改めて書くとして、とにかく現在は穏やかに過ごしている。
それはある意味必要最低限の状況でも穏やかな気持ちになれるという事だ。
悟りとは言いたくないが、多分悟りの境地とはこれに近いのだろう。
しかしわたしが欲しているのは悟りではありませんの。
年末最後の更新ですが、来年が良い年になりますよう。
ほなね。