こんばんは。
ここのところ重いお話ばかりですが、もう少し時間がかかります。
故に重いお話?の続きとなります。
タイトルは有名な作品なのでご存知の方も多いはず。
しかしわたくしこの本読んだ事がありませ~ん(笑
ですが凡その内容は知っています。
同時にこのタイトル棒アーティストのソロアルバムのタイトルであり、楽曲でもあります。
詩の内容は多分原作に準えて書かれていると思われます。
その下りに「ただのクズでいい」とか「優しさには出会えた?」という行があります。
この歌に出会って30年が過ぎていますが、この行いつもいつも思い出す事が多くて、当時少年だったわたしは30年という時間を経ていつしか大人と言われる年齢になり、それなりに人との出会いと別れを通していろんな物事に疲れて、失望していた事に気づく事に至ります。
もちろん相手が全面的に悪い訳では無くてわたし本人が至らなかったが故に招いた結果も含まれます。
なのでわたし一人が疲れたとか失望したと言ってしまうと語弊がありますのでこのような形で捕捉する事になります。
それはともかく。
疲れているのは事実で、実際に失望もしています。
幼い頃から人との関わり合いに何か言い知れぬ不安を抱え続けてきた事に由来すると考えますが、その理由が理解できたところで時間を取り戻す事は出来ません。
だから無理やりでも納得して折り合いをつけて前を向いて生きてきました。
何度も何度も失敗から痛みを感じ取り、学んでいるのに同じ痛みを感じるという事は進歩していないという事になるのでしょう。
それはいい。
問題はその気力とかエネルギーが枯渇状態に近い事。
な、はずなんですがどういうわけか何かが変化する時必ずと言っていいほど必要最低限の何かが出揃ってわたしに歩みを促します。
その何か何なのか判りませんし、スピで括る事もしません。
事実として感じている事、言える事はわたしはまだ死ねない。
大袈裟だけどそうとしか言えないような事を繰り返してきました。
もちろんご先祖様に感謝したり、生かされている事に感謝する事だってあります。
死は一定
この無常観は変わらずわたしの心の中心であり、その無常感がどういう形なのか生きる力になっているのも一つの観方としては事実です。
別に自死念慮があるわけでもないし、特にそのような理由も見当たりません。
作品の中の主人公のように外的な要因で何かを促されて変化をする人もいれば、自身の変革に依って変化する人も存在します。
生きている理由や意味づけなど特に拘ってもいません。
けれどたまに考える。
来世とか別にしても、今感じているこの痛みや生は何の為?と・・・
世間一般で言うところの普通な人生ならこんな事考える事はないのかもしれないと考えた事もあったけど、決してそんな事はなくて、誰もが何かしら痛みや責任を負って生きている意味においてはみんな同じなのだと妙な納得をする。
したところで気が楽になるとかでもないけど、みんな同じ人間という括りならわたしも一人の人間として痛みや責任を負って生きている事になります。
世捨て人同然なわたしでも人間である以上人間である事を辞す事も逃れる事も出来ないし、そんなつもりもない。
ただ「そうなのだな…」と独り言ちてそこから拾える何かを拾ってさらに考える。
そんな繰り返しの中聞こえてくる「クズでもいい」とか「優しさには出会えた?」という言葉がわたしを歩ませる。
もう少し、本当にあと少しでまた新しい変化が訪れます。
生きているだけで上出来と書いた事があるけど、人間強欲なのでそれだけでは満足できずに、さらに何か付加価値を求める。
それでもいいし、それができればそれに越した事もない。
何かを得るという事はそういう事ではないのか?と一旦落ち着く。
そして得る事すら無常の中にちりばめていつしか自分自身が無常に近づいていく。
そんな日常嫌いではありません。
この世界は魂の学校という言い回しがありますが、わたしが学ばなければならない事がそれならそれもいい。
学びが一段落ついたときわたしはやっと眠れる。
そんな気がしています。
※この行全体はあくまでも抽象的な意味も含めてですが、犯行声明や自死を表明するものではありません。
言葉通り現在のわたしの領域で理解できる範囲を言葉にしたまでの事であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
従って通報は無用に願います(笑