古今東西何でも研究所
迷いという事じゃなくて考え事をすると大抵この事に触れる。
それは多分本質がそれを求めているとかそんな事。
それと同じように自分である事の証明とか生きてる実感が薄れがちな時は
出来るだけ思考を止めて感じるままに身を任せてみる。
少なくとも考える事に疲れるという事はそれなりに答えに近づいているから。
複雑に絡まった糸を少しづつ解すように出来るだけ丁寧に慎重に。
そしてそれを阻害しているのは己の思い上がりとか傲慢だと気が付く。
ふとしたきっかけで己が求めていた事の答えが判る事がある。
しかもそれは何かのセリフでしかもしっかりとした言葉であり古いものである事がある。
それで判らなかった過去の自分の答えを知る。
本当に人って自分で考えているよりも己の答えを具体的に言葉にできないものでさらにそれが道端で将棋を指しているおじさんを見物よろしく客観的にはよく見えていたりするもの。
「あぁそうか。あの時自分が苦しくてそれを言葉に出来なかったのはこういう事で、考えても考えても言葉にならなかったのは心が悲鳴をあげていたからなのか…」
「わたしに少しの勇気が足りないばかりに傷つけた。ゴメンね。」
そんな事を理解するのにずいぶん時間がかかるものだ。
生来不器用なのを差し引いてもだ…
そういえばこの10日くらい「めんどくさい」が言葉になって自分の事をするにも本当に億劫だった。
けれど答えが一つ見つかった所以かその億劫さは去ったようだ。
やはりわたしは人として大切な何かが欠けているのだろうか?
それとも経験を通し、出来事を反芻する事で学び答えを見つけるものだろうか?
残念なことにわたしにはこういう事を話せる人物がいない。
存在したとしてもどうなのだろう?
けれど今回の答えで少し気が楽になったよ。
そんなに難しい事ではなかった、というより一度か二度で判っていてもよかったと思うのだが、繰り返しになるがわたしには何かが欠けている。
欠けているというより物事の視点が人と違っているというか、とにかく本質に気づくのは早いのだけどそれを言葉にする能力が足りないのか、語彙が足りないのかよく判らない。
瞬時に判断しないと生死に関わる事ではないのであまり気にもしていないけど。
書いている今も何か上手く言葉に出来ていないのがよく判る。
だが不思議な事に過去に決断した物事で後悔した事は少ない。
答えが見つかって少し気が楽になっても好きという気持ちは忘れていない。
必要以上に不器用で傷つけたけどそれでも好きだった。
多分今も好き。
けれどお互いの為に別れを選んだ。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
何書いてるか判らん(笑
理屈で考えるから頭が混乱する。
思考停止ボタンぽちっとな。
ほなね。